2009年4月24日金曜日

言葉の躍動

今日は少し趣向の変えたものを書く。

若者の活字離れが著しいという論調がすっかり席巻している現代だけれど、個人的にはあんまりそうは思わない。
今までどおり、本を読む人は読むし、読まない人は読まない。

むしろ近年の新書ブームから読書をする人が増えているはずだ。
(俺もその手の人間だから)

では、なぜ、そういった論調が主流なのか?

個人的に思うのは、新聞の購読者が少なくなったことに起因するのではないだろうか。
インターネットの普及やブログの普及により、もはや情報は一方通行ではなくなり、双方向のものとなった。そこで、リソースは幅広く得られるようになり、もはや新聞は情報源としての地位を維持できていない。

しかし、そこは「編集力」といった玉石混交の情報を選りすぐるための「信用」を売り物にし、なんとか保っている。
だが、この金融危機による不況で、広告ビジネスモデルが完全に破綻し、もはや新聞社は火の車となっている。
そのスケープゴートとなっていた若者の活字離れだが、新聞社の1社や2社が飛べば、収まるのかもしれない。

情報というパラダイムがまさに今変革しようとしているけれども、あくまで、業種が選別されるだけで、業界がなくなるわけではない。
当然、カオスの中での指標として新聞の情報は貴重なわけであるから、そこには更なる付加価値を期待したい。

そして、タイトルの話であるが、人を惹きつける記事と言うのは、概して言葉が躍動しているものであると思う。では、それはどういうことか?
まさに書き手が読み手に伝えたいという意志が言葉に宿るか否かということではないだろうか。
ただ単に伝えるという従来のメディアの体制では、もはやもたない時がきているのだ。

しかし、旧態依然とした会社や記者はそれがわからないし、できない。

ジェネレーションギャップを埋める有効な策はない。
そして、結局マスメディアたる新聞の情報による若者の活字離れが正当化されていくのだろう。
世の中は弱肉強食だけど、弱者が束になれば、時代に抗うこともできるのが世の常。
歴史が示すのは、強者でなく、勝者。勝ったものが全てである。

この先、何がどう変化していくのか、見物だし、関与もしていけたらいいな。

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